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炎のダンス魂〜1〜

時は平成5年。香港・リージェンシーホテル。ドニーは友達と、ディスコが併設されたナイトクラブに来た。そこで、香港マダムに誘われジルバを踊ったのが、社交ダンスとの出会いだった。

このとき、初めてジルバが世界共通のダンスだということを知った。ドニーは昔、1人で海外のディスコに行き、多くの外国人と友達なることができたが、それはある程度ダンスがうまく踊れたというだけで、その時点ではまだ、多くの人と踊れるすばらしさは分からなかった。ダンスは、1人で踊っても楽しいが、多くの人と、また言葉が通じない人と、同じダンスを共有できることがすばらしい。最高のコミュニケーションツールだ。

日本に帰ってすぐ、ダンス教室の門をたたいた。初めて入るダンス教室だが、ドニーは東京で定期的にディスコに行って、ダンスバトルを繰り広げていた。ある程度名の通ったダンサーとして、創作したダンスをディスコに来ている人たちに教えたこともあり、自信はあった。しかし、それは大変自由な世界だった。
一方、社交ダンスは、規則正しいステップがありそれをしっかり学ばないといけない。また男性なので、女性をリードしなくてはならない。今まで自由なダンスをしていたドニーにとって、大変な苦痛だった。今でこそ世界選手権に出るまでに成長したが、最初は大変だった。特に女性をリードするには自分のダンスを抑えなければならず、またいろいろなダンスが踊れない女性を満足させることができないのだ。
そうこうしているうち、社交ダンス界には競技ダンスというものがあることを知り、そっちに参加してみたくなった。教室の仲間に、競技ダンスサークルに連れて行ってもらうと、そこには全日本アマチュアラテンダンスのトップ3がいた。また先生は元チャンピオンで海外でも活躍した人だった。
パ−トナーがいなかったドニーは先生から『丁稚奉公のつもりで、そばにいて俺の言うことを逐一聞いておけ』と言われ約4ヶ月、先生がチャンピオンたちに話すことをずっと聞いていた。よく聞いていると、皆同じような事を言われている。そして『いかなる状況でも基本は徹して、しっかりやらなくてはいけない』ことに気づかされたのだ。そしてパートナーも見つかり、最初の試合がやってきた。習い始めて9ヶ月目のことだ。北関東選手権のノービス選で、先生には『最低決勝に残れなかったらやめる』と宣言し、“出陣” した。続く
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